補足:これは2014年12月7日にTunblurにて公開した記事の転載です。
「Deutsche Biographie」にゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍の長男であるヴィルヘルム・フォン・シャルンホルストの記事があったので日本語訳してみました。
注意。
- 原文はこちらになります。(また、同じ文がドイツ語版Wikisourceにも掲載されていました)
- 翻訳した部分は記事原文のうち「Leben」項目内のみになります。
- 訳文に不備が多々あるかも知れませんが、ご容赦ください。また、指摘など受け付けております。
- 今回、麺さんに多大なるご協力を頂きました。この場を借りてお礼を申し上げます。
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「Deutsche Biographie」より「Scharnhorst, Wilhelm von」
以下より、日本語訳になります。
プロイセンの歩兵将軍、ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍の長男。
1786年2月16日ハノーファー生まれ、父親のプロイセン軍移籍(訳注:1801年、15歳の時)後にベルリンのグラウエン・クロスター・ギムナジウムで授業を受け持った。
大学では1806年から1807年の間(訳注:20〜21歳)、法律について専攻し、その後軍人になることを決意。1808年、ブランデンブルク軽騎兵隊に入隊した。砲兵隊でも勤務したが、1809年にプロイセン軍を離れ、イギリスへ行った。そこでハノーファーの時代から父親の戦友である英独義勇軍の抑圧者(訳注:ドイツ人の独裁者? ナポレオン側の人間?)と直面した。
ヴィルヘルムはこの1809年11月21日に砲兵隊の少尉に任命され、1811年の初めにリスボンに到着したのだが、ジュリアス・ハルトマン将軍の指揮下で1813年の初めまで半島戦争のアルブレラ会戦(訳注:1811年5月16日)とサラマンカ会戦(訳注:1812年7月20日)で戦い、そこで彼は片目どちらかに戦傷を受けて視力を失った。だが、シウダード=ロドリゴとバダホスの包囲で優秀で分別のある将校だとして名声を得た。
解放戦争がドイツで始まったとして、ヴィルヘルムはウェリントン公の許可を得て軍から除籍されることなく、父であるシャルンホルスト将軍の願いにより、解放戦争に参加しに祖国へ戻った。プロイセン軍とはグロースゲルシェン会戦(訳注:1813年5月2日)の直前に会い、ブリュッヒャー将軍の参謀となった。彼はそれを講和条約締結まで務めた。ここでも彼はしばしば見事に慎重さ、信頼性、静かな決意によって頭角を現した。
戦闘の再開によりオランダで戦争が起きた時、彼はイギリス軍へ戻った。しかし1815年、ウェリントン公は彼を「すぐに彼を同胞達と共に戦わせるべきだ」として、ブリュッヒャー将軍の軍司令部へ送った。1816年、軍団は解散した。
プロイセン軍では参謀として最初にコブレンツ、その後はベルリンを訪れ、そして1818年の8月、彼はグナイゼナウ将軍の娘であるアグネスと結婚した。彼女は1822年に亡くなっている。
ヴィルヘルムはその後、参謀と砲兵隊の指揮官を務め、戦争に参加する機会を二度与えられた。まず1831年、彼はフリードリヒ・ヴィルヘルムⅢ世の許可を得てオランダへ行き、オラニエ公フリードリヒの周辺で対ベルギー遠征に参加し、その後の1849年にバーデンで起きた蜂起では砲兵隊を指揮している。そこで彼はとりわけハッセルトの士官たちに干渉した。ここで彼はラーシュタット(にある軍?)に対して特に活動的であった。
1850年には健康上の理由からヴィルヘルムは住居をコブレンツからベルリンへ移し、最後に彼は1854年6月13日バート・エムスで砲兵監として駐屯地に立っていた際に脳卒中で死亡した。生き残っていた彼の二人の息子はシャルンホルスト家の男系家系から出て行った。
シャルンホルスト将軍は国外に居住地を持っており、軍でのイギリスへの繋がりへの偏愛という、故郷では風変わりに見える特性から、それは多種多様なここを支配している意見と対立ししたが、対して彼の戦友達は後者に少し価値があると非難する。その彼は形を収め、反感を抱いていると述べており、彼は任務に対して文書で表明した。イギリス側が再びそれを見た時にフリードリヒ・ヴィルヘルムⅣ世はそれを見、1852年にウェリントン公爵の葬儀に送られ、優れた地図資料が残され、そのプロイセン参謀の所有権が移行した。
以上、「Leben」内日本語訳でした。